調和と変革
『わたなれ』で反復される「赦し」について
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最終更新日: 2025年11月2日(日)

『わたなれ』で反復される「赦し」について

TVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』における甘織れな子の言動の整理
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※これはTVアニメ第12話までの内容についての記事になります。執筆時点では第13話以降は未公開ですので言及しておりません。ただし、未アニメ化部分含む原作には感想で少し言及します(ネタバレには配慮します)。

見出し画像はTVアニメ第1話でモデル地となった赤坂駅です。

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簡単な感想

この夏はTVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』に傾倒していました。

PVの内容から明るい百合を期待してアニメを観始めたのですが、期待通りでありつつも良い意味で裏切られ、心を打たれた結果今日まで何度も繰り返し鑑賞しています。

演者の演技プランや間の取り方が軽快でコメディとして楽しく、作画も良いため特定のカットの動きを見返したりコマ送りで一枚一枚作画を鑑賞することでも快楽を得られる作品だと思います。

加えて、主人公の甘織れな子の善悪に関するものの見方、考え方が真摯でとても心地よく、これに良い意味で裏切られ感じ入っていました。

『わたなれ』における恋の機序

公式サイトでは本作を「ノンストップ・青春ガールズラブコメディ」と説明しています。

ラブコメディと紹介されている通り、本作は恋を主題にしており、TVアニメ版(第12話まで)では二人のヒロインが主人公への恋を自覚するまでの物語が描かれます。

(TVアニメ第12話までの展開では3人のヒロインに順繰りスポットライトが当たりますが、その内TVアニメ第5話から第8話の琴紗月編については、他のヒロインと異なり作中で琴紗月が主人公に恋しているのだと言語化する描写や、それと分かるような映像表現が見当たらないため、ここから除くこととします。)

それらは、ヒロインの性格や主人公との相性の違いから異なる展開になり、片や溺愛もの、片や両片思いものとして異なる快楽を提供してくれました。が、恋の始まりは似た機序で描かれます。

今回は、本作における恋の機序について整理し、各ヒロインが恋を自覚するに至るまでの主人公の言動を見ていきます。

王塚真唯編

王塚真唯には積年の悩みがありました。彼女は、「ミス・パーフェクト」「スパダリ」の異名で呼ばれるほどに、完全無欠で決して失敗しないことを世間にも家族にも求められ、弱音を吐くことはゆるされないと認識しており、孤独を感じていました。

第1話で、甘織れな子は王塚真唯の積年の悩みを聞くことになります。話を受けて、甘織れな子は王塚真唯を慰めるため、未来に起こりうる王塚真唯の失敗を赦し、寄り添うことを宣言します。

れな子「王塚さんが弱音を吐くの、初めて聞いたかも」
真唯「もちろん、誰にも言ったことはなかった。君は失望したか?」
れな子「え? ううん、ぜんぜん! 王塚さんでさえ不安と闘いながら、いつも前向きに頑張ってるなら、私ももっとがんばらないとって、そう素直に思えたし、でも毎日がんばってばかりじゃ疲れちゃうのなんて当たり前だし……。私は王塚さんがどんなに失敗しても、絶対に受け入れる! 失敗ひとつ許されないなんて、そんなのムリだもん! いいんだよ別に。たまには、休んでもさ……」

TVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』第1話(2025年)

この宣言を受けたことがきっかけとなって、王塚真唯は甘織れな子への恋を自覚します。

真唯「初めてさらけ出した弱さを、君は受け入れてくれただろう? 家に帰って君の顔を思い浮かべていると、胸のドキドキが収まらなくてな。あれは、私の人生において、非常に衝撃的な出来事だった……そう自覚したとき、気づいたんだ。君が好きだと」
れな子「大げさだよ……王塚真唯が凹んでたら、誰だって慰めたに決まってるって……」
真唯「だが、君だった。その瞬間、私の前にいたのは、君だったのだ」

TVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』第1話(2025年)

しかしながら、王塚真唯は甘織れな子の言葉をまだ信じきれていないのでした。

『わたなれ』では、人が言葉を信じる際は肉体的接触がセットになっている必要があることが描写されています(e.g. ハグや手を繋ぐことで初めて王塚真唯の気持ちを実感した甘織れな子、弟に説教するときに相手の手を握るようにしている瀬名紫陽花)。そして、ここまで甘織れな子の方から王塚真唯に対して肉体的接触を行ったことは一度もありません。本作では言葉を信じさせるためには肉体的接触が必要で、甘織れな子はまだそれを行なっていない、という形で、王塚真唯が甘織れな子の言葉をどこかで信じきれていないことが表現されています。

閑話休題、第3話で、王塚真唯は甘織れな子に対して強引に性行為を迫り、拒絶されます。王塚真唯はこの悪事が甘織れな子から赦されることはないものとして、償うための自罰的行為(性的な自傷行為)を企図します。

真唯「本当に、すまなかったな、れな子……。こんなことでしか罪を償う術がない私を、どうか許しておくれ」

TVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』第4話(2025年)

甘織れな子は、「失敗」を「受け入れる」という言葉を行動(キス=肉体的接触)で信じさせ、罰によって罪人であることから解放されようとする王塚真唯の暴走を止めることに成功し、王塚真唯編はひとまずの終わりを迎えます。

瀬名紫陽花編

TVアニメ第9話から第12話にあたる瀬名紫陽花編でも、恋の機序については王塚真唯編と同じ構造が見られます。

瀬名紫陽花は、家族からも世間からも「いい子」として扱われており、自身も「いい子」であろうと律しながら日々を過ごしていました。しかし内心、そのような誰かに求められた自分を演じるだけの「引っ込み思案な自分」(≒「いい子」)から、自身の望みを叶えるために主体的に行動できる自分に変わりたいと思っていました。

ある日、瀬名紫陽花は自宅に遊びにきてくれた甘織れな子の前で聞き分けのない弟たちに怒ってしまい、甘織れな子に見せたくない姿を見せてしまいます。彼女の前で「いい子」を演じきれなかったことにより、家族に対しても甘織れな子に対しても「いい子」であろうと律し続けることに限界が訪れます。

限界を迎えた現状を変えるため、瀬名紫陽花は家出を企図します。

瀬名紫陽花はこの家出を「引っ込み思案な自分」にはどうせ実行できないだろうと半ば諦めながら駅へと向かいます。しかしながら、駅で甘織れな子と出会い、彼女から同行を提案されます。これが助けになり、瀬名紫陽花の家出は実行されることになります。

悪事だと認識していた家出を甘織れな子が咎めることもなく同行しようとした、言い換えると悪事が赦された時に、瀬名紫陽花は甘織れな子への恋を自覚します。

紫陽花「(モノローグ)家出旅行に出たあの日。
変わりたいって、思ってた。
ずっと『いい子』で来た自分の中に、いつからそんな気持ちが芽生えたんだろう。
バカなことってわかってる。
電車に乗るような思い切りなんてないのに。
駅まで来たら引き返そう。
そう、思っていた。
だから。
だから、天使に会えて、羽が生えた気がした。
ほんとは最初から気づいてたんだ。この胸の高ぶりが恋だって」

TVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』第11話(2025年)

第10話で、家出旅行に付き添った甘織れな子に対して、瀬名紫陽花はその費用を負担するといいます。瀬名紫陽花はこれを悪事(家出したこと、その上甘織れな子に付き合わせてしまったこと)に対する罰として捉えていました。

紫陽花「やっぱり……だめだよ。みんなとカフェに行くのとは、違う。だって私は、家に弟たちを置いて飛び出してきたひどいお姉ちゃんで……。そんなのに、付き合わせた上にお金を半分こしてもらうなんて、虫が良すぎるよ」

TVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』第10話(2025年)

これは甘織れな子によって止められ、その代わりに瀬名紫陽花はしたかったこと(一緒に入浴すること)を甘織れな子に要求します。これによって、家出という罪が罰へ繋がることがなくなり、家出に対する赦しが達成されます。甘織れな子によって、罪から罰へと繋がる因果関係が上書きされたということです。

加えて、瀬名紫陽花が望む、「引っ込み思案な自分」から変わること(自分の望みを叶えられるように主体的に行動すること)もここで部分的に達成されます。つまり、甘織れな子の赦しは、現状を際限なく肯定して堕落させるような性質のものではなく、ヒロインが成熟するために必要だった承認として機能しています(図1)。二人のヒロインはそれぞれ家庭に対して問題意識を抱えていますが、そこから『わたなれ』を(ステレオタイプな考えになりますが)家庭が担っていたとされる親から子への承認を家庭からは得られなかったヒロインたちが、甘織れな子からそれを受け取り、成熟が始まる物語、と読むことも不可能ではないでしょう。

赦し成熟\begin{align*} &罪\xrightarrow{赦し}成熟\\ &\downarrow\\ &\xcancel{罰} \end{align*}

図1

(王塚真唯にとって甘織れな子の赦しはどのような影響を持っていたのか、という点についてはTVアニメ第12話の段階では語られませんが、原作では第4巻から語られ始めます。アニメ勢は『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)~ネクストシャイン!~』と続きの原作でその姿を見届けましょう)

「赦し」について

ここまで、王塚真唯と瀬名紫陽花が甘織れな子への恋を自覚するきっかけは、自身の悪事を赦されたことだと書いてきました。

「赦し」という言葉を使うにあたって思い出していたのは、教科書で読んだ大澤真幸の記述です。(孫引きになります……)

責任という概念を虚しくしてしまうような、残虐な犯罪に関与した犯罪者に対して、私たちは断じて赦せない、という感覚をもつ。そして彼らに厳罰を科したいと考える。そのとき、私たちは、犯罪者たちが赦しを乞うのを待っているのである。赦しを乞う、犯罪者の声を聞きたがっているのである。本当に、心から赦しを乞うならば、赦してあげよう、というのが私たちの普通の態度である。だが、これは本当の赦しだろうか。罪人が罪を認めるということは、罪人が罪人以上のものになったということ、罪人よりはましなものになったということ、少しばかり善人になったということである。罪人が善人に変質した後の赦しは、本当の赦しと言えるだろうか。考えてみると、改悛によって善人になったものを赦すこと、つまり「あなたはもう罪人ではない。」と伝えることは、単に、罪人(だった人)についての客観的な事実を認識し、記述しているだけであって、真の赦しとは言えまい。ここには、赦しというものがもつべき、「倫理的決断」の要素は、全くない。

大澤真幸. 「責任と赦し」. 『精選 現代文 改訂版』, 筑摩書房, 2013, pp. 264–265

甘織れな子は、王塚真唯から強引に肉体を求められ(剰えその現場を家族に見られ)たことで傷ついていましたし、瀬名紫陽花の家出についても「家族が困っちゃう」よくないことだと認識していました。それらの行為が悪であることは認めていますし、その点を覆そう(正当化しよう)とはしませんでした。その上で、二人のヒロインが囚われている、罪に対して罰で贖わなければならないという発想を上書きして自罰的行為を止め、赦すという「倫理的決断」をしたのでした。

この、甘織れな子の「倫理的決断」とその前提が、私が『わたなれ』で感じていた心地よさを作っています。

簡単な感想その2

甘織れな子は「失敗」を「受け入れる」と言いましたが、これには失敗が失敗であることは認める、という姿勢が(当然のことながら)前提として含まれています。つまり言語を誠実に運用するということです。

言語を誠実に運用することは善い社会を実現するための前提のひとつですが、私の観測する限りこれは公的な場でも私的な場でも少なくない人ができていないように思われます。特に失敗や罪を言語化する、認めることを徹底的に忌避するあまり無茶苦茶な態度を見せてくる人に驚かされることが度々あります。

こういう世界に生きていると、『わたなれ』で表現される誠実さは実に癒されます。

原作第5巻以降、甘織れな子は自身の悪意にも自覚的になり、それを正当化せずに苦しみながら行動する様が描かれるようになります。またとある登場人物が自罰的に、破滅願望むき出しで主人公たちに悪意をぶつけてくるのですが、これにはラブコメを読んでいるとは思えない(という言い方もなんだけど)タイプの興奮が押し寄せてきます。甘織れな子が彼女の行動をどのように見つめ、赦すのか(あるいは赦さないのか)、次の第9巻もとても楽しみです。

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