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- 最終更新日: 2026年2月1日(日)
『わたなれ』が批判する「普通」について
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- reiji990
※これは『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』第4巻の構造を網羅的に整理することを目指した記事になります。第4巻の前段である第1巻〜第3巻の内容にはもちろん触れますが、それ以外に第4巻を映像化したTVアニメ第13話〜第17話およびその総集編『ネクストシャイン!』で追加された演出、台詞等にも言及しますし、第5巻〜第8巻および短編集の内容も参照します。王塚真唯と瀬名紫陽花の悩みがどのように解釈されるかという点については前回の記事もご参照ください。
サムネイルに使用している写真はモデル地となった幕張メッセです。
Table of Contents
甘織れな子が捨てた(捨てさせた)「普通」とは何か
本作第4巻の終盤では「普通」という言葉が象徴的に使われます。また、『ネクストシャイン!』のメイン・テーマでも「『普通』じゃない物語」という歌詞がサビの終わりに使われており、本作の制作者たちがこの言葉を重要視していることが伺えます。今回はこの言葉を軸に『わたなれ』を読んでいきます。
王塚真唯と瀬名紫陽花の二人から告白を受けた甘織れな子は、どのような答えを出すかを悩んでいました。二人の思いを真摯に受け止め、思考を巡らせる中で、甘織れな子は自身のこれまでの振る舞いを再解釈します。1
――わたしは人に好かれたいんじゃない。
誰かの特別になりたいだとか、親友がほしいとか、一番になりたいとか。
そんな大それた願いはずっと噓だったのだ。
誘われる際にメンバーに入れてほしい。場にいることを許されたい。わたしが喋ったことをみんなに聞いてほしい。したことへの反応がほしい。
それって、ぜんぶ、ようするに――。――ただ、人に嫌われたくないだけだったのだ。
みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) 4 (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 22). 集英社. Kindle Edition.
甘織れな子は「誰からも嫌われない」ための方法は「普通」になることだと考えていました。そして、「普通」であることは、「みんなと一緒」であることだと説明します。
もし本当に、誰からも嫌われない方法があるとしたら、それはひとつだけ。
『普通』になることだ。
好きなものも一緒、嫌いなものも一緒、なにもかもみんなと一緒になれば、周りから叩かれることはなくなる。無敵のバリアの完成だ。
みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) 4 (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 351). 集英社. Kindle Edition.
「みんなと一緒」であり続けようとする、ということは、他者からの評価を意思決定の基準に置くということです。他者からの評価を維持し、失わないよう努めること。これを目指すことが甘織れな子の「普通」であるということです。
第4巻の終盤で、甘織れな子はこの「普通」を捨て、「『普通』じゃない」選択肢、すなわち王塚真唯と瀬名紫陽花の両者と交際すること、二股をかけることを選びます。
「だからわたしは『普通』なんて、いらない」
胸に手を当てて、宣言する。
「どっちのことも選ばないんじゃない。ちゃんと、ふたりとも選ぶ。すごく贅沢なのはわかってる。けど、わたしは、真唯と、紫陽花さん。ふたりと、ひとりひとりと付き合いたい」
みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) 4 (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 363). 集英社. Kindle Edition.
この決断があまり一般的な発想でないことは多くの方が同意することだと思います。三人での交際が始まった第5巻以降は、三人がこの関係を周囲に隠しながら恋人としての行為を愉しむエピソードを挟みつつ、関係を知った周囲の人たちの反感に立ち向かうストーリーが組み立てられます。甘織れな子が中学生の頃に憧れていたような、恋人とのデートの写真をSNSに投稿してちやほやされるようなことは当然ありません。甘織れな子の決断は、他者からの評価を意思決定の基準から切り捨てるということでした。
そして、甘織れな子の決断は、王塚真唯と瀬名紫陽花に対しても「普通」を捨てることを求めます。しかし、王塚真唯と瀬名紫陽花にとっての「普通」は、他者評価を意思決定基準に置くということではあっても、甘織れな子の考える「みんなと一緒」ということではありませんでした。では、それはどのようなものだったのでしょうか。
王塚真唯にとっての「普通」
王塚真唯にとって、他者評価に影響されて生きることは、母の「生き方を模倣」するということでした。
『人生は一度きり。私は後悔しない。あなたにも後悔をしてほしくはない。だから、行動は慎重になさい、マ・シェリ』
『……はい』
それは何度も彼女が口にしている言葉だ。自分のために言ってくれている。だけど、それの本当の意味は——。
(あなたが願う『後悔しない生き方』というのは、つまるところ、あなたの生き方を模倣しなさい、ということなのではありませんか?)
真唯は胸の内で問いかける。
みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) 4 (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 318). 集英社. Kindle Edition.
王塚真唯は母の手がけたブランドのモデルを務めていますが、身体条件が極めてシビアに評価されるモデルの世界で、彼女の肉体は海外で十分通用するものではありません。しかしながら母の求めに応じて、王塚ルネの娘という肩書きを使ってどうにか海外でもモデル活動をこなしていました。自身の実力以上の評価を母の権威によって与えられ、他者を蹴落とし仕事を勝ち取る日々。これは王塚真唯にとって、母が設計した人生を自身の肉体で演じるということ、誰からも意思が尊重されない世界で生きるということでした。
「私には、自分がない」
真唯はそう言った。
「いつだって私は、ママの望む『王塚真唯』という人物を演じている。それはクイーンローズのスターモデルに相応しい女性だ。彼女は強く聡明で、この学校の皆に好かれている。立派な人物だと、私自身も思う」
まるで他人の業績を語るような言葉だ。
みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) 4 (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (pp. 338-339). 集英社. Kindle Edition.
そして、母から要請されたモデルという仕事は、公私を問わず王塚真唯の行動基準を他者評価に強く依存させます。
国内外で精力的にモデル活動をこなすということは、人並みの生活をいくらか諦めるということです。珍しい生活が周囲に伝わることは腫れ物に触るような扱いを受けることに繋がります。ライバルを蹴落として仕事を勝ち取る世界を生きる以上、他者から恨みを買うことも珍しくありません。望まない羨望も恨みも、舞台に立つ以上は避けることができません。王塚真唯に母が用意した人生は、他者評価を避けることが許されない世界に彼女を縛りつけるものでした。
王塚ルネは仕事だけでなく私生活にも干渉してきます。王塚ルネは、王塚真唯が「普通」の恋愛(世間に気兼ねなく公表できるような、規範化された一対一の恋愛)をして、やがて結婚することを望んでいます。王塚真唯が恋活パーティを主催したことを知った時はそのことを咎め、恋愛のあり方に対して自身の考えを押しつけます。(この行動は芸能人がプライベートの行動によっても評価されてしまう仕事であることも原因にあるのでしょう。)プライベートにおいても、王塚真唯は母と他者からの評価のために生きることが要請されているのでした。
王塚真唯は母や世間から要請される生き方を強く内面化しており、そのことを「自分がない」あるいは鉤括弧付きの(つまり個人の識別記号ではなく注意語句として、ここでは表面的な人格を指す)「王塚真唯」と説明します。第1巻で王塚真唯が甘織れな子に求めた恋人という関係は、一対一であり、結婚(と出産)に紐づいたものだということが(冗談まじりに)語られていました。これは母や世間から求められた恋愛の在り方です。第2巻で琴紗月に精神的優位を取るために話した、「本当に正しいのは、敵がいない道」という話は、ビジネスで有効とされるブルーオーシャン戦略の概念を流用したものです。第3巻で瀬名紫陽花の恋路を応援するために話した、進化論と個人の変化を紐づけた話は、ビジネスに取り組む人の間に自己啓発として蔓延したクリシェです。同じシーンで話した「On n'a qu'une vie」という文句は王塚ルネの受け売りであることが第4巻で明らかになりました。規範的な恋愛の在り方や経済的合理性を追求した思考様式は母と世間に求められた「王塚真唯」像ではあるのですが、彼女自身の欲望や思考様式が「王塚真唯」像と深く結びついていることがこれらから表現されています。
王塚真唯はこの規範的な欲望をぶつけることで第1巻で甘織れな子を傷つけます。以降甘織れな子に対する振る舞いを改めようと試みますが、母と世間に求められる「王塚真唯」を演じる(規範的な欲望を内面化する)限りそれは達成されません。そして、王塚真唯は自身が自立しておらず、母に生かされた身であると認識しているために、母に要請される「王塚真唯」を演じることを辞めることができません。こうして第4巻で王塚真唯は袋小路に入り身動きが取れなくなります。
「私は環境に恵まれているからな。その礼はしなければならない。ママがなにかを要求したとして、断る理由も権利もないさ」
真唯が長い脚を抱え、膝に頬を乗せる姿は、まるで幼児みたいだった。
みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 122). 集英社. Kindle Edition.
引用した地の文の「まるで幼児みたい」とは、王塚真唯が母の強い影響下にあること、自立していないことの表現です。
瀬名紫陽花にとっての「普通」
瀬名紫陽花にとって、他者評価に影響されて生きることは、「いい子」であろうと律しながら日々を過ごすことでした。これには、共働きの両親を助けるために母の代わりを務めることが含まれます。作中、この母の代わりという役割により瀬名紫陽花の日常生活は強く制限がかかっていることが度々描写されます。世話をしなければならない二人の弟は中々聞き分けのない子たちで何度も同じことを注意する日々。放課後に友人と遊ぶこともままならず、夏休みもずっと家で世話に忙殺されていました。このストレスは第3巻で爆発することになります。
「といっても、バイトする時間なんて、ないんだけどねえ」
「そ、そうなの?」
「うん。夏休みだしね。お母さんの代わりに、弟たちの面倒見なきゃいけないから。遊びに行ったり、お外で働いたりとか、できないんだー」
「そう、なんだ」
「両親、共働きだから仕方ないんだけどね。今までずっとそうだったから」
みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) 3 (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 47). 集英社. Kindle Edition.
高校生のような、(多くの場合)被扶養者の立場にある年齢であれば、その人生は扶養者の生き方に否が応でも影響されます。親が自営業者や企業経営者の場合、家業の手伝いや、将来継ぐことを求められることもあるでしょうし、(勤務などで)親が家を不在にしがちであれば、親が行うべき(?)とされる家事や他の家族の面倒を見ることを求められるでしょう。王塚真唯と瀬名紫陽花は、親に求められる、親の模倣、代行、再生産の道を歩んでいました。そして、それこそが二人にとっての、周りに求められる「普通」でした。
既に「『普通』じゃない」友人たち
本作には、物語当初からこの意味で「『普通』じゃない」道を歩んでいる登場人物がいます。甘織れな子の友人、琴紗月と小柳香穂です。
琴紗月は、女手一つで自身を育ててくれた母が何度も恋愛に失敗し傷つく様を見つめ、やがて母の人生の再生産にならない人生を望むようになります。そうして感情を強く抑制して人を好きになることのないように日々を過ごすようになったのでした。
怖かった。いつか自分が、母のように愚かな女になってしまうことが。
だから決めたのだ。
恋が、私と家族を歪めるのなら。
こんなもの。
自分には、いらない。
みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) 8 (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 254). 集英社. Kindle Edition.
琴紗月は、母の在り方が原因となって今の自身の在り方があると思われること、それぞれの在り方に因果があると他者に思われることを拒否します。母と自身は独立した個人である、そうあるべき、そうありたいということです。これは自身のアイデンティティを母に依存している王塚真唯と対になっています。
「やめて、母のなにかを見て、私を理解した気にならないで」
みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) 2 (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 114). 集英社. Kindle Edition.
そして、琴紗月は他者評価をまるで気にしていないことが度々描写されています。すなわち、琴紗月は親の生き方を再生産することを拒み、かつ親以外も含めた他者からの評価を気にせず、自立した個人として生きている(そうありたいと思っている)ということになります。
小柳香穂は、両親の離婚によって関わりの深い家族だった母と会うことがなくなり、更に父の再婚により家での居場所を失います。すなわち、模倣するか否か以前に、参照する親を失い、強制的に「普通」からドロップアウトさせられます。
「香穂ちゃんち、犬飼ってるんだ?」
「うんー。最近はまだまだ暑いから、家の中にいるよ。冬も寒くてかわいそうだから、家の中で飼ってる。パパが再婚してから、新お母さんにべったりだから、モケコはあたしに構ってくれる唯一の家族なんだ」
「重い……」
みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) 4 (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 103). 集英社. Kindle Edition.
その後2はコスプレ活動に没頭し承認欲求を満たそうとしますが、レイヤー同士の人間関係やアンチの言葉に傷つき、他者評価に依存しながらコスプレ活動を続けることが困難になります。その対策として、かつての甘織れな子を範として、やりたいことを貫く強い自分を演じる(普段から陽キャのコスプレをする)ようになります。小柳香穂も、必ずしも自身で望んだことではないにしても、親の生き方の再生産の道を歩まず、他者評価の世界からも離れて生きる意思があることが描写されています。
「『普通』じゃない」選択肢についての補足
「『普通』じゃない」生き方を選んだ琴紗月は、告白への答えに悩む甘織れな子へのアドバイスとして、決断が後悔とセットであることを語ります。
「人生とは、決断すること。神様じゃないんだから、未来なんてわからない。そうして選んだ道を、どうにかこうにか進むしかないの。後悔するとわかっていてもね」
含蓄ある言葉の響きに、背負っていたリュックがさらに重くなった気がした。
「……紗月さんは、大人ですね……」
「別に、私だってあなたと同じよ。後悔しながら生きてきたもの。真唯と同じ学校に行ったらぜったいに後悔するとわかっていたのに、行かないことを選べなかったように……」
みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) 4 (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 95). 集英社. Kindle Edition.
この台詞は先ほど引用した王塚ルネの「私は後悔しない」という台詞と対になっています。王塚真唯に「普通」の生き方を求める王塚ルネと、「普通」の生き方を自発的に捨てた琴紗月で、同じ「後悔」という語を使って互いのスタンスを語っています。
王塚ルネは事実上王塚真唯に決定権を握らせないことで後悔しない人生を歩めるよう諭します。「私は後悔しない」という宣言は、自身の生き方を盲信するということ、後悔することを受け入れないということ、思考停止するということです。
一方で、琴紗月は、甘織れな子がいずれ行う決断に後悔はつきもので、それは受け入れるしかないのだと語ります。王塚真唯に「後悔をしてほしくはない」と語る王塚ルネの狙いが結局のところ世間(自分)にとって望ましい「普通」の選択肢に誘導することだった以上、それと真逆の「後悔するとわかってい」る道を選ぶという話は「『普通』じゃない」選択肢を選ぶ可能性を甘織れな子に示唆します。また、決断とは意思決定である以上、思惟を前提とする言葉です。
本作の「普通」を選ぶか否か、という対立は、思考停止するか考えを巡らせるかの対立でもあるのです。
甘織れな子は「普通」か?
ここまで確認してきた、四人の家族に関する状況を簡潔にまとめます。
- 母を模倣する王塚真唯
- 母を代行する瀬名紫陽花
- 母の模倣を避ける琴紗月
- 参照する母を失った小柳香穂
甘織れな子に対する恋を自覚したのは前者二人であり、二人は親の求めや環境の必然性から親の生き方の再生産の道を歩んでいました。
甘織れな子はどうでしょうか。甘織家の家族仲が極めて良好なことは毎巻描写されており、甘織れな子は高校生活の中で時間的、経済的に不満を感じている描写も特にありません(瀬名紫陽花の家出に同行した直後に家庭用ゲーム機が故障した時はさすがにお金の工面に窮していましたが、それでも生存や尊厳のための消費に制限は受けていませんでした)。親に生き方を強制されることも、親の作る環境から人生の選択肢が狭められることもない、その上家族間の関係も良好な、本作ではほとんど唯一の家族に対する問題意識のないキャラクターとして描かれています。王塚真唯や瀬名紫陽花のような、親に生き方の制限を受けているという意味での「普通」の立場にいないということです。
そして、甘織れな子は「普通」になりたいなどと客観的評価に拘っているようなことを言いながら、その実態は琴紗月や小柳香穂の側に近しいことが第2巻と第4巻で語られます。
第2巻で、当初甘織れな子は琴紗月に言いくるめられて琴紗月一人の都合で契約交際を始めたと認識していました。しかし、終盤でこの交際は琴紗月一人の都合ではなく、甘織れな子自身も王塚真唯にささやかな復讐を遂げたいと思っており、琴紗月から評価されるためではなく自身の望みのために行動したのだと再解釈します。これは作中「共犯者」という語で説明されていました。
第4巻で、過去の小柳香穂が他者評価の世界から離れて生きることを目指した時、範としたのはかつての甘織れな子の在り方でした。甘織れな子は中学時代の人間関係のトラブルが原因で他者からの評価にひどく怯えるようになるのですが、かつてはごく短い期間の交友しかなかった小柳香穂が強く憧れる程に「『普通』じゃない」生き方を力強く実践していたのです。
「普通」を捨てる意義
ここまで、本作について他の方が言及していないように見られた、ヒロインたちの家族に対する問題意識という切り口から本作の構造を書いてきました。ここからは、多くの人が言及する切り口で、あらためて第4巻のストーリーを確認していきます。
第4巻の甘織れな子の悩みは、どちらの告白に応じるか、ではなく、告白に応じること自体の恐怖でした。自分は容易に世間に否定される存在だから、目立つ行動をとってそれを否定的に評価されたくないということでした。それは告白をしてくれた相手ではなく、そのやりとりを評価する世間のことを気にしているということです。甘織れな子が告白されたことを受け入れられないことは、大切に想っている王塚真唯と瀬名紫陽花への想いよりも世間の評価を重要視することを意味します。しかし、甘織れな子にとって大切なのは不特定の誰かではなく王塚真唯と瀬名紫陽花です。二人を大切に想うのであれば、他者評価に縛られて生きることはできないのです。
甘織れな子は小柳香穂が実践している強く生きる演技を催眠音声で擬似体験し、実感を伴って小柳香穂を見つめることで、強く生きる必要性と相手を大切に想うなら何をしなければいけないのかに気付き、「普通」を捨てる覚悟を決める、というのが第4巻のストーリー(登場人物の変化)になります。
小柳香穂も同様に、コスプレが世間から評価されることが前提となる趣味であるために、逃れられない世間の評価を恐れて幕張コスプレサミットへの出場を躊躇していました。しかしながら、小柳香穂にとって大切なのはアンチやライバルや心ないコメントをする不特定の誰かではなく、ファンであり、コスプレの対象とした作品であり、それを愛する自分自身でした。
「絵を描けるわけでも、文章を書けるわけでもないあたしが、作品への愛を表現するための手段。それがコスプレだったんだ。以降すっかりコスプレにハマっちゃって」
みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) 4 (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 111). 集英社. Kindle Edition.
アニメ版では、限られた尺の中で本作が何を語っているのかを端的に説明するために以下引用符部分の台詞が原作から追加されています。
れな子「今ようやく魂でわかったよ! “他人なんて気にしなくていいって!”」
TVアニメ『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』第16話(2026年)
『ネクストシャイン!』のキャッチコピーは「わたしはわたしを、好きになりたいから!」。自身を好きになることは、他者評価に関係なく自身を肯定できるようになることです。甘織れな子と小柳香穂は、他者評価の世界から自己実現の世界へ意思決定基準を移行すること、自己評価が他者評価に縛られないようになることで、実質的に自身を好きな状態になります。そうして小柳香穂は幕張コスプレサミットに参加し、甘織れな子は王塚真唯と瀬名紫陽花の告白に返答する勇気を手に入れます。
告白の答えに悩む甘織れな子と、幕張コスプレサミットへの出場の諾否に悩む小柳香穂はまるで「鏡みたい」だったと語られます。これは、他者評価の世界から自己実現の世界へ、意思決定基準の移行を二人が同時進行で行ったことの表現でした。
王塚真唯と瀬名紫陽花が第4巻で陥った状況
王塚真唯と瀬名紫陽花も、告白の答えを待つ内に、甘織れな子に似た悩みを抱えるようになります。
王塚真唯は、大切に想っている甘織れな子と瀬名紫陽花のどちらからも嫌われたくないと思った時から、自分が望む結末が分からなくなり、行動できなくなり、二人を避けるようになります。これは第4巻で極端に出番が減る、という形で表現されています。また、一人で屋上に居たシーンは第1巻で甘織れな子がコミュニケーションに限界を感じて屋上へ逃避したシーンの反復ですし、三人での遊園地デートのドタキャンも予め決めていたことでした。これは甘織れな子が告白に回答する恐怖に立ち向かう「回り道」として小柳香穂に接近したことに少し似ます。しかし、王塚真唯の行動は甘織れな子の「回り道」とは違い、決して戻ってくることのない逃避でした。アニメ版ではこれを端的に表現するため、王塚真唯がフランスへ移住する計画を立てていた、という改変がなされます。
瀬名紫陽花は、王塚真唯を心配するあまり、甘織れな子が自分ではなく王塚真唯を選ぶことを望むようになります。これは、甘織れな子を想う気持ちよりも王塚真唯を案ずる気持ちを優先するということであり、甘織れな子がはじめ(実質的に)二人よりも世間の評価の方を気にしていたことに似ます。
他者評価に縛られた生き方を選べないことを自覚した甘織れな子は、いち早くこの迷路(他者評価に縛られた世界)から抜け出し、告白してくれた二人と向き合い、「『普通』じゃない」選択肢を提示し、二人を他者評価の世界から引き上げます。そして、それこそが、王塚真唯と瀬名紫陽花にとって真に必要なものだったということが第5巻以降で語られます。
恋人と友達をめぐる思索と(現時点の)結論
次に、これも多くの方が本作に絡めて言及している、友情と恋愛に関する思索について書いていきます。
本作では、甘織れな子が友情と恋愛の判別が得意でないことがヒロインたちから度々指摘され、甘織れな子は幾度も友情と恋愛について言葉を重ねて理解しようと努めます。
第6巻で、甘織れな子は琴紗月に促されて辿々しく友情と恋愛に関する思索の成果を話します。これを簡潔にまとめると、①人は人を大切に想うことがありうる、②その想いの在り方を人は友達や恋人や家族3と名付けて分けたけれど、③本質的にはあまり差は無いのではないか、というものでした。(なお、甘織れな子は第3巻でも概ね同じ内容を話していますので、第4巻時点で既にこの発想に辿り着いているものと思われます。)
甘織れな子の言葉を受けて、琴紗月は、恋愛とは自分たちの関係を自分たちがその名で定義することでのみこの世に存在しうる概念なのだと理解します。
「……逆に言うと、体感している最中にそれが恋愛かどうかはわからなくて、あやふやな感情に名前を付けた時点で、それが恋愛だと定義されるってこと……?」
みかみてれん; 竹嶋えく. わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) 6 (ダッシュエックス文庫DIGITAL) (p. 224). 集英社. Kindle Edition.
この発想は、恋人という関係が従うべきとされる規範を解体する働きがあります。
世間的には、恋人と呼ばれる関係には大切に想い合うこと以外にも他の関係と分ける要素が存在するとされます。一対一の関係であること、交際が続けばいずれ結婚し家族になることが想定されること、等々。それらが満たされることを条件に、交際関係にある二人は世間から肯定的に評価されます。王塚ルネが娘の王塚真唯に求めたのはまさにそのような恋人でした。王塚真唯も母の求めを内面化しており、甘織れな子にそのような恋人の在り方をプレゼンするのでした。
甘織れな子は、恋人という関係に世間が要請するこれらの要素を重要視していません。
第1巻で甘織れな子は王塚真唯が提案する恋人という関係を最後まで拒みました。王塚真唯のことを大切に想っていることを認め、性的な接触を一定程度許容する姿勢を見せつつも、二人の関係を恋人と名付けることを拒否しました。この理由は、第1巻から第2巻において、王塚真唯が冗談まじりに話す結婚や出産の提案に甘織れな子が恐怖し、徹底して拒絶していることから読み解くことができます。「恋人ってまだ、よくわからない」という断り文句は、友達と恋人の判別がついていないことの告白であるのと同時に、王塚真唯がプレゼンした規範的な恋人関係の在り方に同意できないということでした。
世間が要請する標準化され共同体的に決定されたカテゴリーとしての恋人は脇に置いて、自分たちの関係を恋人と定義したいという発想が、第4巻の甘織れな子の結論になります。
世間に広く普及した恋人の在り方に従わないとすると、甘織れな子が提案した「恋人」は何を意味していたのでしょうか。
甘織れな子と二人のヒロインそれぞれとのやり取りの中で、性的な接触をゆるすか否かが恋人と友達の明確な違いだということが共通して語られており(第1巻と第4巻におけるキスの扱いが当てはまります)、その点は全員が同意していました。そして、この他に三人全員が同意する恋人の要素はありません。世間が恋人と呼ばれる関係に要請する要素を捨てた上で三人の関係を恋人と定義することは、三人にとっての恋人の要素を、他の関係と比較して性的な接触が許容されることのみに設定することです。
甘織れな子は、これを承知して二人へ告白します。
なぜ、本作はこのような結論になったのでしょうか。
交際とは一対一の関係であり結婚と紐付くものだ、という規範に従うことは、恋人という関係を家族の前段に設定することになり、恋人を作ることと(ヒロインたちを苦しめている)既存の家族規範が接続されることになります。逆に、世間で家族の前段として扱われている恋人という関係から家族規範を再生産する要素を削ぎ落として恋人という関係を再定義すると、全く異なる意義を持って恋人という関係が浮かび上がります。
甘織れな子が世間的な規範に従わずに二人と交際することを提案することは、「ふたりのことを、幸せにする」手段として、再定義された恋人という関係を使用することを意味します。
「親友じゃなくて、れまフレでもなくて、恋人に」なる必然性
時折、第4巻ないしアニメ版の感想として、「二人への返答として、れまフレに類似した独自の関係を提示するのではいけなかったのか。恋人というラベリングが果たして必要だったのか」という反応を見かけることがあります。これは世間が要請する交際関係の在り方の問題点を把握しているからこそ生じた疑問だと思われますし、本作はそれを指摘しているのですから、この疑問が生じることは十分ありうることだと思います。しかしながら、ここまで書いてきた、ヒロインたちの抱える問題意識と甘織れな子が恋人という言葉を再定義したことから演繹すれば、甘織れな子はやはり恋人という言葉を選ぶべきだという結論になります。
そもそも王塚真唯は甘織れな子とれまフレという関係に落ち着くことを承諾していませんし、れまフレという関係は、甘織れな子が王塚真唯への想いよりも世間の評価を気にしている状態だったために提示した弥縫策なのですから、告白に真剣に返答するために自身を好きになった(他者評価を乗り越える強さを手にした)甘織れな子がその選択肢を選ぶ必要がありません。という説明も一応は可能です。ただしこれらは、れまフレを選ばない理由であって、恋人という関係を積極的に選ぶ理由にはなりません。甘織れな子は、自身が「願って、望んで」二人と恋人になりたいのでしたね。
第4巻の終盤で、甘織れな子は恋人という言葉を(あえて、定義を変えて)使います。甘織れな子の告白を受け入れると、「『普通』じゃない」形で恋人を作ることになりますから、甘織れな子と関係が続く限り王塚真唯と瀬名紫陽花は規範的な恋愛をする道を閉ざされることになります。そして、現代においては結婚にも性愛規範が絡みますから、甘織れな子の操作は二人を苦しめる家族規範を撹乱することでもあり、これは二人を本質的に救いだす可能性を作ります。これらは、恋人という言葉を使うからこそ達成されます。もし独自の言葉で三人の関係を作るとなると、二人は種々の規範を内面化し続けることになり、二人を苦しめている状況を変えることができません。
アナロジーとしての「最小結婚」
上述した点については、エリザベス・ブレイクが提唱する「最小結婚」の説明が、同じ論理構造を持ち問題意識も近しいため理解の助けになるかと思われます。
「最小結婚」とは、結婚の定義を現在受け入れられている一対一の排他的な性愛に基づく関係からあらゆるケア関係へと拡張し、リベラリズムと適合する形へ結婚を脱規範化するというものです。これは、現在結婚というものに要請される規範が善き生にとって必要でないばかりか、その規範が他のケアの在り方を脅かす危険性があることを問題意識としています。その是正のために、制限と制約の最小化処理を施し、脱道徳化した結婚の形を提唱します。この提案は、大きく変更されたその関係をなぜ結婚と呼ぶのか、という反応を受けることが容易に予想されます。ブレイク自身、留保を設けつつもこれは「個人関係」と呼んでもよいと述べています。しかしながら、あえて結婚という言葉を使うことが、現在の結婚という言葉が持つ性愛規範的な差別を是正することにつながるとしています。
改定された法的枠組みを〔あえて〕最小「結婚」と呼ぶ目的は、過去の国家による差別の是正にあるといえる。
エリザベス・ブレイク (著). 久保田裕之 (監訳) 羽生有希・藤間公太・本多真隆・佐藤美和・松田和樹・阪井裕一郎 (訳) (2019). 『最小の結婚——結婚をめぐる法と道徳』 (p. 310). 白澤社
そして、ブレイクは結婚という言葉を使わずに「個人関係」を法制化し結婚制度を廃止した場合においても差別は残ると主張します。結婚という言葉を無視するのでもなく、廃止するのでもなく、意味を拡張して使うことが差別の是正に有効だとしています。
そもそも結婚制度を廃止してしまえば、すべての人を対等な法的地位に置くことで平等を達成できると思われるかもしれない。しかし、結婚制度の廃止は、いまなお社会的に強力な結婚制度の手綱を、教会や商業的な「ウェディング・チャペル」その他の民間企業に譲り渡すことになるだろう。国家の関与こそが、社会的地位としての結婚への平等なアクセスを確保するのだ。結婚制度の廃止が民営の供給者によって人々が結婚制度に参入するのを否定してしまうのに対して、結婚の改革は平等なシティズンシップについての明示的なメッセージとなるはずである。
エリザベス・ブレイク (著). 久保田裕之 (監訳) 羽生有希・藤間公太・本多真隆・佐藤美和・松田和樹・阪井裕一郎 (訳) (2019). 『最小の結婚——結婚をめぐる法と道徳』 (pp. 311-312). 白澤社
甘織れな子が恋人を再定義することは、上に書いた「最小結婚」と同じ論理に基づいた効果を生じます。恋人という言葉が持つとされる要素を減らし、より多くの形がありうるように言葉を拡張することは、家族規範に苦しめられる王塚真唯と瀬名紫陽花を規範を撹乱した世界へ導き、そうではない生き方がありうるのだと可能性を示します。
家庭が担っているとされる親から子への縦のつながりによる承認を家庭からは得られなかった王塚真唯と瀬名紫陽花は、甘織れな子から、縦のつながりを作る規範を撹乱され、性愛関係という横のつながりで承認を受けます。これは二人が囚われていた問題意識を上書きするということです。これにより二人の問題は是正されます。
「普通」を捨てさせる意義
第5巻以降の王塚真唯と瀬名紫陽花の行動から、三人で交際することが二人にどのような影響を与えたかを確認します。
三人で恋人になって以降、王塚真唯は自分たちの恋路を王塚ルネによって阻まれることのないように、王塚ルネを騙して三人の関係を守ろうと努めます。瀬名紫陽花も、親代わりにこなす家事で忙しいからと諦めていた、生徒会への入会を決意します(「瀬名紫陽花と、生徒会選挙」より)。こうして、「『普通』じゃない」道を選んだ二人は、親からの評価や家庭環境に縛られない生き方を模索するようになりました。これらは二人の成熟として語られます。
王塚真唯については、欲望との向き合い方が大きく変わったことも特筆すべき点になります。第4巻で王塚真唯は初めて甘織れな子に涙を見せますが、これは、第1巻の「私は王塚真唯だ」「君に涙を見せるわけにはいかない」という台詞を参照して読むべき演出で、「王塚真唯」の仮面が剥がれたことの表現でした。規範的な恋愛をする道を閉ざされたことで、王塚真唯は母や世間に求められる「王塚真唯」像を演じることが不可能になったということです。第5巻以降、王塚真唯は世間の規範や母の求めに縛られることなく甘織れな子に対する欲望に向き合うようになります。二人は話し合いながら、お互いの欲望を受け入れた交際の在り方を模索します。(e.g. 「おさわりタイム」)
甘織れな子の、「普通」を捨てる決断、二人に「普通」を捨てさせる決断は、王塚真唯と瀬名紫陽花を、二人が囚われていた、客観的評価のために行動しなければならない(親の生き方の再生産をしなければならない)という価値観から解放し、二人を成熟に向かわせるものでした。
これは二人の告白へ「普通」に答えること(片方と一対一の交際を行うこと)でも、あるいは「普通」の在り方に干渉せず代替案(れまフレ)を示すことでも辿り着くことはありえません。何故なら、二人が「普通」のままでいるということは、二人を苦しめる現象を作った規範に従うということであり、親の生き方の再生産の道を辿り続けるということであり、自身の問題意識から目を逸らし思考停止し続けることだからです。
『わたなれ』がこれから語ると思われること
最後に、王塚真唯と瀬名紫陽花が辿り着いた「『普通』じゃない」道を既に歩んでいた琴紗月と小柳香穂は成熟した個人なのか、というと決してそうではない、ということは付け加えておきます。
琴紗月が、母のようにはならないという意思決定の結果実行しているのは、感情の抑制、思考に一定のブレーキをかけるということでした。これは王塚ルネが「後悔しない」という語で示した、思惟を捨てた態度に少し重なります。琴紗月にはまだ成熟へ至るための決断する物語が与えられる余地が残されているのです。琴紗月の母への思いが断片的に語られたのは第8巻ですが、これは第9巻で琴紗月の中で母親の人生の解釈に何らかの変化が生じることを期待させます。
琴紗月は第8巻で人が恋愛をすること自体を否定し甘織れな子と思想的に対立する立場を取り、恋愛に関する甘織れな子の決断を見定めて自身の糧にしようと企てます。この結末が語られるであろう第9巻で琴紗月が何を見つめどのような決断を下すのか、とても楽しみです。
小柳香穂については、そもそも現在の状況が自身で選んだものではなく、なんら決断を下していない段階ですので、こちらも今後、何らかの意思決定を行う物語が与えられることが期待されます。
本作は、第5巻以降にスポットライトのあたるヒロインたちも家族に対して何らかの問題意識があることが語られます。甘織れな子は、ヒロインたちと深く関わることで、現代におけるさまざまな家族の在り方と、それによって生じたヒロインたちが抱える問題意識を見つめることになります。そして、ヒロインたちは甘織れな子との関わりの中で何らかの決断を下し、家族との向き合い方を変えます。
全てのヒロインが自身の問題に決断を下すには、ひょっとすると膨大な物語が必要になると思われますが(そもそもヒロインが増え続けているため)、全てが語られるまで原作が続くことを一読者として願わずにはいられません。
Footnotes
本作では、甘織れな子が自身や他者のこれまでの振る舞いを再解釈し、その言語表現に従う形で意思決定する様子が繰り返し描写されます。これは甘織れな子が王塚真唯から受け取った美徳で、言語を誠実に運用することを心がけ、その結論が感情や常識に抗うことになったとしてもそれに従うという知的態度です。この態度は甘織れな子が「『普通』じゃない」決断を下す前提になっています。第4巻で王塚真唯を救いだしたのは、他でもない彼女自身が持っていた、そして甘織れな子に与えた美徳だったのです。 ↩
原作とアニメ版では、小柳香穂がコスプレを始めた時期が異なります。原作では父が再婚した後に一人でコスプレを始めますが、アニメ版では(小柳香穂が改姓した理由は語られていませんが、原作と同様に小柳家で離婚・再婚があったと仮定すると)両親の離婚前に母と共にコスプレを楽しんでいる姿が描写されています。これは、先ほど台詞を引用した、王塚真唯と王塚ルネの会食シーンや、小柳香穂が家庭環境を説明する台詞がアニメ版でカットされているのと同様に、本記事で中心的に述べている家族周りの表現をアニメ化に伴いマイルドな表現に変更する演出方針の一つと思われます。 ↩
この台詞は、これまでの物語で大切に想っているヒロインたちとの関係を「友達」と「恋人」の二択で考えていた甘織れな子が、大切に想い合う関係に「家族」という選択肢を追加したことも重要な点になります。第6巻でスポットライトがあたるヒロインは甘織れな子の妹(家族)の甘織遥奈ですから、ここで「家族」という選択肢が追加されたことは(家族である妹と家族以外の関係になることはないと甘織れな子は想定しており、且つ妹のことを大切に想っているため)自然なことなのですが、同時に、本作が世間的な家族の在り方から生じる問題視される現象だけでなく、成員同士が大切に想い合う関係として家族というものが存在しうる(し、おそらくは甘織遥奈以外のヒロインも家族をそのように解釈することがありうる)ことを本作(おそらくは第2シーズン)で語ることを宣言しています。 ↩